2012/4/10

対談・俺たちの挑戦

きょうまで「KIHACHI」って芸名かと思っていました。料理人で芸名つけたのってかっこいいなって……。河野透

熊谷喜八アイビー株式会社 最高顧問
熊谷喜八
アイビー株式会社 最高顧問
河野透レストラン モナリザ オーナーシェフ
河野透
レストラン モナリザ オーナーシェフ
上原雄三ARK HILLS CLUB 総料理長
上原雄三
ARK HILLS CLUB 総料理長
聞き手:酒井一之ヴァンセーヌ・サーヴィス 代表
聞き手:酒井一之ヴァンセーヌ・サーヴィス 代表

酒井:きょうは、フランス修行の今昔みたいなことで、ちょっとお話を伺いたいと思います。熊谷さんは僕と同じくらいの時期にフランスにいたわけですが……。
熊谷:初めて海外に出たのは、パリ経由でアフリカに行った1969年です。その後アメリカに渡り、1972年に「マキシム」に入りました。石鍋さんなんかもいっしょでした。でも労働許可証を持ってなくてすぐ出されちゃった。
それにしても、あの頃の酒井さんは格好よかったねえ。イヤ、もちろん今でも格好いいですよ(笑)。高そうなコート着て乳母車押しながら奥さんといっしょにパリの街を歩いてるのを見たりしたよね。


酒井:あはは。あの頃はメリディアンパリの副料理長だったし、僕は大統領が乗っているのと同じシトロエンに乗ってましたが、で、何十年後に日本に帰ってきたら、今度は僕は地下鉄、昔の仲間はベンツに乗っている。(笑)
上原:僕は 1976年にアメリカ アトランタの総領事館の料理長をやった後、1977年から1986年までフランスにいました。最初は労働許可証を持っていなかったんですが、1981年にミッテランの社会党が政権とって、外国人でも積極的に受け入れて税収アップをはかれば国も潤うじゃないかという政策に切り替わり、運良く労働許可証をもらうことができました。
河野:僕は1982年から1990年までいました。まったくあてもなくフランスに行きましたから、2日めにはジプシーに襲われたり、さんざんでしたね。和食店のバイトからはじめて、雇ってもらえるように毎日何十件も頼んで廻り、やっと引き受けてくれた店では給料がもらえなかった。「ギィ ・サボワ」でやっと本格的なフランス料理を始めました。
熊谷:マキシム時代のスーシェフにいっしょに来いと誘われて「パヴィヨン・ロワイヤル」に移った後、「ホテル・コンコルド・ラファイエット」のロブションの所に行きました。日本人としては、ロブションの一番弟子だったことになります。ロブションはあの頃まだ29歳位だったかな。


酒井:あの頃ロブションは絶好調の上り坂だったね。コンクールにはスタッフを全員参加させて、賞を総なめだった。
河野:僕が面接に行った時にはロブションは優しいおじさんだと思ってたけど、まずいことに2~3日目に上等のお皿を割ってしまったんですよ。ロブションが、鼻が擦れるほどあの強烈にすごい顔を近づけて来て、噛み付かんばかりにどなられました。ロブションはキッチンではニコリともしない。女の子の前ではこぼれんばかりの笑顔なんですけど。(笑)フランス人がこんなに怖いのかとびっくりしました。フランスの大きな男達が彼の前では本当に手がガタガタ震えていましたね。2年半くらいすると僕もキッチンで3番手くらいになっていたのですが、肩に手をかけてきてしゃべったり、ほっぺたをポンポンとはたいたりするようになりました。これが彼の信頼を伝える愛情表現だったんですね。
上原:「リュカ・カルトン」にいる時シェフのサンドラスに伝令役を頼まれ、何人かのスタッフに「君はもう田舎に帰っていいらしいよ」って伝えたことがあるんですけど、大の男がみんな涙を流して泣いていましたね。プライドがずたずたにされて追い出されちゃう。
河野:向こうではすぐ帰れ、出て行けですからね。ロブションの口癖は「出て行け!」その一言で何人もの人が消えていきました。皆、そこに残れるだけで必死でした。
上原:僕も朝6時半から夜12時まで死にもの狂いでした。僕の青春でしたね。フォアグラもトリュフもそれまで見たことがなかったですから。
熊谷:フランスのレストランは本当に厳しいよね。みんな必死。出勤したら全員働いてたもんね。ほんとに精鋭だけが残っていくようになっている。だから、全世界に通用している今のフランス料理になったんだろうけどね。


酒井:MOFの店や、2つ星、3つ星だと、辞めさせても人手には困らない。次から次に優秀なやつがやってきて、だめなやつをはじき出していくから、レベルアップがすごい。
熊谷:そういうところがシェフもすごいし、来る人も覚悟が違う。すごい人の所にまたすごい人が集まっちゃう。フランス人は働かないっていうイメージはまったく間違いで、すっごい働きますよ。体力がないとついていけない。
河野:コックさんはほんとによく働くね。だから社会的な地位も高い。
熊谷:酒井さんとか私の時代には、まだフランス人にとって日本人は敵国だった。親とか親戚とか周りに戦争で死んでる人がいっぱいいたわけですよ。だから日本人が大嫌いな人が仕事場にもいっぱいいました。
河野:そうなんですか。僕が行った10年後は全然違ってた。先輩の皆さんが歴史を作ってくれたからですね。どこでも、日本人は仕事ができると思われてました。


酒井:フランスの良い所は、どんな仕事でもできる人が認められるところだね。またどん欲にいろいろなものを取り入れるよね。フランス料理は随分変わった。盛り付けから何から我々がいた当時から見ると全く違うじゃないですか。
熊谷:最近のフランス料理は、ほんとに日本料理と変わらないものね。
上原:どんな田舎のレストランに行ってもSHOYUは当たり前で、YUZU、MISO、DASHI、WASABIはメニューに載ってますよ。


酒井:そういう意味では、これから若い人にもどんどん世界で活躍する人が増えてきてほしいね。
河野:そうですね。今ではフランスで1ツ星や2ツ星をとる日本人もでてきてるしね。
熊谷:フランスだけでなく、すでにずいぶんたくさんの国で日本人が活躍している。


酒井:面白い事に、日本では評価されなくても、海外で高く評価される場合もたくさんあるよね。才能だろうけど、行って花開く場合もあるから。とにかく大事なのはやる気と言葉ですね。僕も最初はまじめにアリアンスフランセーズに通った。
河野:僕も学校に通って1冊目のテキストはクリアしたけど2冊目に入るとっさっぱり分からなくてやめてしまいました。でも、外国に行ったらガンガンしゃべらないといけない。友達同士でも、会話の中に割っていかないとダメだと感じましたね。
熊谷:とにかく、中に引っ込んでたらダメだね。前面に出ていかないとね。そうすれば、日本人の料理は間違いなく世界で通用するんだから。


酒井:東北大震災や福島のダメージを乗り越えて、まず「料理から元気な日本」を創り出していきたいですね。話はつきませんが、きょうはありがとうございました。
 


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