2018/6/8

フランスにおける日本人今昔

ムッシュー酒井の ど~もど~も No.51

私の料理人人生のスタートは1961年。開業前のパレスホテル(東京)入社が始まりである。休みが多い学校なら好きな山歩きができるので学校の先生になろうと思って大学に入学した矢先、紹介者がホテル就職の話をつないでくれた。(仕事と学業は両立しないことは分かっていたが、結果5年間大学に籍は置くものの卒業できず)。料理には興味があり、もしかしたら外国に行くチャンスが生まれるのではと思ったのが動機である。1964年10月に東京オリンピックが始まり、その前後フランスからルコント氏、ジョン・プレ氏(Hプラザアテネ・Hムーリスの料理長)など有名フランス人シェフが相次いで来日、新しいフランスの料理情報が入ってくるにつけ、次第にフランスに行って料理の勉強をしたいという思いが強くなり始めたのはこの頃であった。

1961年 小田実(まこと)氏の「なんでも見てやろう」がベストセラーになり、海外旅行自由化に伴って若者の海外渡航がブームになり始めた頃でもある。これ以前に料理の勉強のため英国、フランスに渡った料理人はいるが、企業から派遣された研修がほとんどで、個人で渡った人はごくわずか。1960年代半ばが、フランスで料理を勉強しようと日本人が行き始めた時代の第1期ではなかろうか。

1966年渡欧を決心。ソニー、日立、ホンダなど日本企業の海外進出が盛んであったが、まだパスポート発行に際して、業務渡航、観光目的などの発行条件が決められていて、当時給料が1万円弱、1ドルが360円の時代。購入外貨持ち出しに制限があって500ドル(当時の18万円)。フランスへの片道の旅費が確か、25万円くらいだったと記憶している。到底自分の貯金で賄える金額ではなく、親の脛をかじらなくてはならなかった。

当時のフランスは景気が悪く、外国人労働者、特に移民労働者を削減することが政府の方針であった。日本人を受け入れてくれるホテル、レストランは数少なく、労働許可書を取れずに闇で働いていた日本人が多かったが、日本人はよく働く、器用だ、正直であると評判が高まり、採用してくれるところが増えて次第にその数を増していく。

増える日本人旅行者、企業の邦人向けの日本食レストランも1970年頃から少しずつ増え始め、日本人旅行者向け免税店、(いわゆる香水店)もこの頃オペラ通り、サントノレ通りに続々と開店する。日本人によるインバウンド景気、(中国人の爆買いのような現象)がパリのあちらこちらで起こり、日本人が注目されたのもこの頃である。

1976年私がメリディアンパリの副料理長になった頃パリにいた日本人料理人は20名ほどであったと思う。当時雑誌「パリマッチ誌」に見開き2ぺージで、エッフェル塔を背景に20人ほどのコックコート姿の日本人料理人が並んだ写真が掲載された。「日本人料理人がいなければパリのガストロノミーは成り立たない」といった副題が、確かについていた(私も写っている)。この時日本人料理人に声をかけた中心人物が、現ホテル・エドモンド名誉総括料理長の中村勝広氏である。

1900年に発刊されたミシュランガイド フランス版。1979年ミシュラン誌上に初めて日本人で一つ星に輝いたのが当時の「レストラン ブルドネ」の料理長を務めていた中村氏である。今から約40年前のことである(この頃は日本人経営のフランス料理店、日本人オーナーシェフはいなかった)。日本人料理人が評価され、パリをはじめフランス中の有名レストランで働く日本人が増える中で、初めての快挙だった。

日本人二番目の星に輝いたのが1982年稲垣大輔氏(ベルベデール)。稲垣氏はオーナーシェフとして初めてミシュランの星に輝いた第1号の日本人である。稲垣氏には少し苦い思い出がある。私がHムーリスで働いていたとき、京都で手広く事業を展開されていた彼のお父様がパリにやってきた。当時私と稲垣氏は一緒に働いていたので、心配になり訪ねてきたのだろう。息子がどうしてもフランスで料理の勉強をしたいと言ったので出したが、どうですか息子の才能は、フランスでやっていけますかと、父が思う息子への心配だった。私は手広く事業をなさっているお父様に、料理人を辞めさせて日本に返し、お父様のお仕事を継がせた方が良いのではとアドバイスしたが、稲垣氏はフランス滞在13年で独立、見事オーナーシェフとしては日本人第1号のミシュランの星を獲得したのだ。私には人を見る目がないと痛感した。

2002年平松宏之氏がパリで開業したレストランが星に輝いた。2006年には松嶋啓介氏が星を獲得。彼は18歳の時、私が料理長をしていた渋谷の「ヴァンセーヌ」に入社、20歳でフランスに渡り、フランス各地で修行して25歳で小さなレストランを買い取りミシュランの星を獲得、最年少記録で、フランスに在住する日本人オーナーシェフとしては第2号である。同年吉野建氏、2007年三浦賢彦氏、2008年相田康次氏、2009年伊知地雅氏(菅沼豊明氏の弟子)、この後も毎年ミシュランで評価される日本人が続く。2018年に発表されたミシュランにはフランス在住の日本人2人が二つ星、新たに5人が一つ星を獲得。働かせてもらえることが目的だった時代から、フランス各地にフランス人に評価される独創性・創造力を持った日本人料理人が次々と生まれている。

やがて「日本人料理人がいなければフランスのガストロノミーは成り立たないだろう」とフランス人がつぶやくかもしれない。

酒井 一之
酒井 一之

さかい・かずゆき
法政大学在学中に「パレスホテル」入社。1966年渡欧。パリの「ホテル・ムーリス」などを経て、ヨーロッパ最大級の「ホテル・メリディアン・パリ」在勤中には、外国人として異例の副料理長にまで昇りつめ、フランスで勇名を馳せた。80年に帰国後は、渋谷のレストラン「ヴァンセーヌ」から99年には「ビストロ・パラザ」を開店。日本のフランス料理を牽引して大きく飛躍させた。著書多数。


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